エッセイⅡ 2009年はベルリンの壁崩壊20周年!
1989年11月9日はベルリンの壁が崩壊した日です。
もうあれから今年、もう20年になるとは・・・
分裂していた東西ドイツ、
分裂していた東西ベルリン!
そんな状況の中、私は1981年から1988年まで私、音楽の研鑽のためいわゆる西側のベルリンで生活していました。
そんな西ベルリンは当時、旧ドイツ民主共和国(DDR、通称東ドイツ)のほぼ真ん中に位置し、まるで陸の孤島のようでした。
でも東ヨーロッパからは!逆の立場から言えば一番近い西側だったのです。
多くの方はまるで西ベルリンが壁で閉じ込められてような錯覚をお持ちになるでしょうが、本当の壁の本来の目的は、東ベルリンからの市民の西側への流失を防ぐためだったのです。
なぜ西へ?それはもう!まず、人として許せないのは、自由や権利が許されない生活!
たとえば、西側の雑誌を読んだり持ち込んだりすることは禁止!
西側のメディア、例えばテレビやラジオ放送を聴いた者を密告したら報奨金が出る!
物が本当に驚くほど無い!あっても質がものすごく悪い!
日本で言えばコーヒーの味は5回くらい湯通しした出がらしみたいな!・・・それになかなか溶けない砂糖!コーヒーが溶けるまでに30回転は必要?だったかも(笑)
それ以外でも歯ごたえを完全に失った古い野菜!たとえばをセロリをサクっと音を立てて食すとかレタスをバリッ噛んで食べるなんてとても有り得ない。きゅうりを1本購入するのに何百メーターも行列!
乳製品はほとんどなくたぶん日本の戦後に給食で出てきそうな脱脂粉乳!のような・・あれはなんだったのでしょう?
車を購入するのにあの東独製の劣悪トラバント(ぶつかると車体がわれるそうです)でさえ購入するのに10年待たされる。当時マツダが輸出したファミリアなんてたぶん20年待たされると聞きました。
楽譜屋で譜面を数冊購入したら紙で包んでいただいたけれど、セロテープが無いので、ひもで縛っていただきました。もちろん日本のようなあのプラスチックの袋なんてまずありえない。(ちなみに包んでいただいた数冊の譜面の包み紙は店を出てからすぐ破れて楽譜は皆、歩道に落下してしまいました)
これでも当時の共産圏といわれた国の中では経済力が高いと言われていたのだから、いったい他の国はどんな生活だったのでしょうか?
だから西側への亡命は人として当たり前の感情と私は今でも思っています。
そんな当たり前のことを妨害し、銃で命まで奪う壁!表現が強力かもしれないけれど、いつも“赤いナチス”の象徴と心の中で思っていました。
私は1982年から1988年まで今は有り得ない!そんな状況下での西側の
ベルリンで生活をしていました。おかげで自由のありがたさを本当に学べたと思っています。
この写真も本当に私!ですよ(笑)
PS、私の広島での平和活動に対して現在、ウィークデーに生活している地域で
こんな噂をされたことがあります。
「あん人(私)はベルリンにおったとばい?ベルリンは東ドイツの首都タイ!
東は社会主義の国たい!
だけん、あん人は広島で平和活動みたいな赤い活動ばしょっとバイ!
あん人は危険分子ではなかろうか?」
世の中は色々ですね。日本も広い!東西ベルリンももう知られなくなったんだぁ!
「広島で沢山、平和教育を受けてよかった!」って思います。
私は、音楽家として当たり前な「リベラリスト」ですよ!
音楽を教える仕事をしている上で当然の心根だと思うのですが・・・・?
そういえば8月6日の広島平和式典を赤の溜まり場と発言された方がおりました。
広島の人間としてこのような偏った発言は許せないと思っています。
2010年10月3日でドイツが統一して20年になりました!
壁の崩壊から11ヶ月で統一まで至った!凄いことです。
当時の西ベルリンで生活していた私には信じられなかった。
ずいぶんEngland やFranceは反対したはず。
ロシアも(当時はソヴィエトだったけれど)ゴルビーでなければどうなっていたでしょうか?
それから20年、東西ドイツもずいぶん過去になってしまったなんて・・・・
本当は信じられないでいる私です。
その他の私が居たころのBerlin写真集↓↓↓↓↓
2010~11年の新年にかけて22年ぶりにベルリンを訪問しました。
22年前の光景とは随分変わったことには驚き!
現在のベルリンの写真を数枚、追加していまのすので、
22年前との違いを見ていただければと思っています。
(2011年3月1日)